新連載

【新連載】2回シリーズ(1)

保育者の働き方改革の必要性

佛教大学教育学部教育学科 教授 佛教大学附属幼稚園 園長   佐藤 和順  

  働き方改革関連法が施行され,その必要性やワーク・ライフ・バランスの実現が保育現場でも課題となっています。しかし,実際には「毎日残業」「事務仕事が増えている」「ノンコンタクトタイムなんてとっても無理」という声が多く聞かれます。一方で,実際に働き方改革に取り組んで,一定の成果を出している園もあります。どこにその違いがあるのでしょうか。

 保育者は長時間労働になりやすい傾向があります。「子どもの最善の利益」「子どもファースト」の理念のもと,子どものことを中心に考えることは大切です。しかし,生産性などで判断できないためにどこまでやればよいのかが見えにくいことも事実です。そのために保育者が長時間労働を強いられ,持ち帰りの作業があったりするのが現実です。保育者の就業継続の困難感や労働環境が低下するのであれば,そのことが子どもの育ちの保障に支障をきたすことも認識しておかなければなりません。

 安易な残業依存や仕事の持ち帰り体質が保育の現場にある背景には,必要な時にはいつでも残業や持ち帰りができる仕事中心の保育者が多く存在していることがあります。そのような働き方を前提とすると,働く時間や場所に制約があったり,仕事も仕事以外の生活も大事にしたいと考える人材活用が困難となります。短時間勤務,パートを希望する保育者,またフルタイム勤務でも残業免除で働きたい保育者,さらには仕事だけではなく仕事以外の生活を大事にする価値観を持った保育者などが働きにくい職場環境であれば,保育者不足は一層深刻化し,正規の保育者の負担が一層増加することになります。このことは新人保育者の就業継続にも影響を及ぼすことでしょう。

もちろん,仕事が好きなことは悪いことではありません。しかし,仕事が好きでも,仕事のみの生活をしている保育者は,視野や人間関係が仕事に偏ることで成長機会が制約される懸念もあります。このことは,保育者の成長を望む園にとっても課題となります。

 長時間労働や仕事の持ち帰りに疲れて,就業継続が困難になる。このような悪循環を断つためには,「今までそうやってきた」,「みんなそうしている」ではなく,自律的な時間管理のもとでの,自分で考える時間意識の高い働き方への転換が必要となるのです。企業と同様に園においても「仕事総量」を所与としてすべての業務が完了するまで労働サービスを投入し続けるような働き方ではなく,「時間総量」を所与として,その時間で最大の不可価値を生み出すことが求められるのです。保育はどこまでやっても,完ぺきということはないのではないでしょうか。そのことが保育の質の向上につながることも事実ですが,終わりがないということも働き方を考える上では難しい課題です。一定の質を保つことを前提として,ある程度のところで切り上げるという態度も今後は必要となるでしょう。

【新連載】3回シリーズ(3)

子育ては「うまくはがれるように離す事」(3)

Joyit 代表 臨床心理士 井上知子

 では、最初の回で述べた例、B 子ちゃんに「静かにして」と何回も言われて、歌う声を小さくしたにもかかわらず更に要求されたため、ついに蹴っ飛ばした事件のA 君への対処はどうしましょう?色々な対処法があると思います。ここでは案の一つを述べてみます。

完全解では到底ありませんが、少なくともA 君の判断力を付けられるかもしれないと思います。親でも先生でもいいのですが、大人の振る舞い方を考えたいのです。多分、女の子が泣き出し「A 君が蹴った!」と訴えたところから事件は発覚です。大人から見れば小さな事件ですが、その子たちには生きている事そのものの大きな事件です。そのプロセスを子どもがいかに体験するかは、その子達の育ちに影響するのではないかと私は考えています。ここでは先生(または親)とA君との会話を想像で書いてみます。

 (先生がそれぞれの気持ちを汲みながら話せば、B子ちゃんと3 人でも、よく似た形で出来ると思います)
先生「あら、A 君。B 子ちゃんを蹴ったの?どういう事でそうなったか教えてくれる?」(一方的に怒られないと思った子供はスムーズに事実を話す可能性があります。)
先生「そうか~。A 君、よっぽど歌いたかったんだね?」
A 君「うん」
先生「その時B 子ちゃんは何してたの?」
A 君「絵本見てた」
先生「そうか~。だから声を小さくして協力したんだね」
A 君「うん、そう」
先生「でも、同じような事を何回も繰り返したんだね。…今その状況を思い出してね、A 君はどうすればよかったと思う?」
A 君「歌いたいから、B 子ちゃんに他のとこへ行って読んでよ、って言えばよかった」
先生「他のやりかたもある?」
A 君「他にはない」
先生「そうか~。…A 君が他の所へ行って歌う、という手もあるかなあ?」
A 君「それ、したくない」
先生「そうか~。すると、A 君は歌いたい、B 子ちゃんは静かに本を読みたい。これはけんかになるね~。どうしようか?」
A 君「う~ん、…僕、他の所に行って歌ってもいい」
先生「そうか、すると蹴っ飛ばさなくても歌えてそれはそれで気持ちいいかな~」
A 君「うん、多分ね」
先生「蹴ったことはどう思う?」
A 君「蹴らなくても良かった。B 子ちゃんは本読みたいんだ。でも僕歌いたい。どうしようって、言ってもよかった。」
先生「そうだね~。歌いたかったことは置いといて、蹴ったことは謝る?」
A 君「うん。謝る」
 こううまくいくかどうかは不明ですが、少なくとも私の今までの経験では、相手の感情を大切にして、行動をそのまま受け入れて話を聞くと、相手の気持ちが静まっていき、客観的に状況を理解しはじめ、小さな子でもそれなりの結論を出してきます。上記の対処を可能にしているのは、「反映的な聴き方」と呼ばれる相手の感情を映す聴き方と、「問題解決の模索」という手法です。よく、「相手に寄り添って」と言いますが、まさにそれが必要だと思います。大人が言葉で自立を強制することなく、プロセスを大切にしながら感情に寄り添い、子どもがした経験を子どもに考えてもらうように沿っていく事で、子どもが判断の力を蓄えていき、大人から自然にはがれるように自立していけたら、と願っています。

【新連載】3回シリーズ(2)

子育ては「うまくはがれるように離す事」(2)

Joyit 代表 臨床心理士 井上知子

 子育ての目標は何でしょう?と保護者に問うと返ってくる答え。元気で優しい子に。健康で人の事も考えられる子に。大人になった時、自分で考えて行動できる人に。毎日が楽しめる子に、等々。それぞれナルホドと思います。気は優しくて力持ちの桃太郎さん。望ましいですね~。かっての私もそう思い、先ほど書いた保護者と同じく、日々奮闘し子どもにきちんと話してこの世のルールを教えこまなければならない、と思っていました。

 さて、ここにリンゴの木があります。実よ、早く大きくな~れ!立派な実にな~れ!そして実を大きくすることに親は一生懸命。子育てとは立派な実にする事、と考えている人が多いかもしれません。有名大学に是非入れるためには、塾はどこ、と目の色を変える、など。
しかし、リンゴの実は親の木からうまく離れて行ってくれないと木の上で腐ってしまうのです。だから子育ての目標とは、子どもが親の木からはがれるように自然に離れて行って一人でやっていく力がつくようにする事、となるでしょう。親からすれば「力を付けつつはがれるようにうまく離す事」となるでしょうか。親は、早く大きく立派な実にな~れ、と思っているかもしれません。しかし、本当は急いではいけないのです。人が育つのには時間がかかるのです。しかも基礎がしっかりしていないと、心の健康な子に育つのが難しいのです。基礎とは何でしょう? この世は人と共同していく所、自分の事は基本的には自分でする所、自分の出来ないことは人に頼める所、そして楽しめる所、居心地のいい所、成長するのが面白い所。でもルールのある所、ルールを守れば安全な所。そういう事をしっかり伝えていきたいものです。私はそれを教え込むのでなく、子どもの主体を起こしながら、経験を通して学んでもらい、人としての芯を育ててもらう方が安全だと思うようになりました。教え込めば、表面上わかったように見えますが、なかなか芯に届いていない現象を目にするからです。 

 自己肯定感とは、定義がとても難しいですね。できる事も出来ないこともあるけれども、失敗もするけれども、自分は自分であって大丈夫、工夫しながら前に行ける、等身大の自分を認められる、受け入れられる事が必要かと思います。自己肯定感の育っている人は平和であり、落ち着いており、自己主張もしますが人との協力もできるので人との関係もたいていは良好、自立してもいるからです。主体の起きている子への関わりは建設的で楽しく、大人は、面白いと感じることが多いでしょう。教え込みや上からするしつけが多すぎて、その割には責任をとってもらわないとか、かゆいところに届くケアの育児は相手を受け身にさせ、主体が起きにくくなります。「自分のために人は何をして
くれるのか」ということを学び、待っているためです。また、周りのケアが強いと、自分で自分の人生を動かせていないので、納得度が低く、劣等感も起きやすく、自己肯定感も低くなります。子育てはうまくはがれるように離すことがコツ。さてその離し方は、どうすればいいのでしょう?私たち大人の知恵が総動員されなければならないと感じます。

【新連載】3回シリーズ(1)

子育ては「うまくはがれるように離す事」(1)

Joyit 代表 臨床心理士 井上知子

 若いお母さんたちとお話すると、「子どもに自己肯定感を育てるにはどうしたらいいのですか?」という質問を受けることがあります。とても知的なお母さん達が多いのです。おっとっと、いきなり本題ですね、と思うのですが、「で、そのためにどうしておられますか?」と尋ねると、「習い事をして何かできる事を身につけさせて自信を持たせるといいのかな?と思っています」と結構返ってきます。「そうですか。習い事はだいたい3 か月ハネムーンで、やる気満々ですが、そのうちお友達と遊びたいから今日はイヤとか言いませんか?」と尋ねると、「そう、それで嫌がる日があるので困っています。一度習い始めたらチャンとさせたいので、結構バトリ(battle)ます」という答えが多く聞かれます。

 つまり嫌がった時に「一度習い始めたものは休んではならない。」という親の理想を子どもは強要されるという事です。これがあまり強く繰り返されると結構親子関係はまずいかも。自己肯定感を育てたいという親の目標は良しと思います。しかしそれを実現する日常のプロセスがあまりに大事にされていないのでは?と危惧することがしばしばです。強要して習い事を全うさせることに多くの保護者は焦点を当てていますが、
それよりも、それに関連して起きる日常的な事柄の処理の、出来る・出来ないではないそのプロセスこそ、自己肯定感を育てるのに関係するのではないかと筆者は考えるからです。そしてもう一つは、保護者の方が、「出来る」という事が自己肯定感につながる、と思っておられるというのは気になるところです。

 5 歳児A 君のお母さんのお話。園から連絡があり、「A君がB 子ちゃんを蹴ってB 子ちゃんは泣き、蹴ったところを湿布しましたが、赤くはなっていません。園ではA 君に蹴ってはいけないと注意し、わかってくれたと思います。しかしB 子ちゃんの家に謝罪に行くことを薦めます」との事でした。先生の説明によると、A君が歌を歌っていた、B 子ちゃんが「静かにして」と言った、それでA 君は声を小さくした、それでもB 子ちゃんは「静かにして」と言ったのでさらにA 君は声を小さくして歌った、それでもB 子ちゃんは「うるさいから静かにして」と言ったので腹を立てて蹴った、との事でした。お母さんが聞いても同じ事情でした。その後ご両親でコンコンと「人を蹴ってはいけない」と言い聞かせて、親子3 人でB 子ちゃん宅に謝罪に行ったそうです。ごく普通にあるお話だろうと思います。

しかし…この措置で果たしてA 君についた力は何だろう?と考えると、さて?と思うのです。“悪い時は謝る”というのを学んだでしょうが、こういう事が頻繁に起きると、自分は悪い子という自己イメージが生じ、周囲にも乱暴な子、問題の子、という見方が定着します。
その中でA 君の自己肯定感って、どうやって育つのでしょうか?少なくとも周囲の大人が伝えたものは、そのトラブルが起きたのちの対処法でした。そのトラブルの直前や最中の扱いの力がA 君に付いたわけではないのです。そしてB 子ちゃんにはどういう力が付いたのでしょうか?私たちが子育てする時、この対処で誰にどういう力が付いたのか?そしてそれぞれを尊重できているのか?それを考える必要があるように思います。

【新連載】3回シリーズ(3)

言葉と言葉のあいだには…③

平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理

 実習指導をしていく中で、「声を掛ける」「声掛けする」「声をかける」「声かけする」「言葉を掛ける」「言葉掛けをする」「言葉をかける」「言
葉かけをする」など、学生のノートを見るとこれだけの言葉の使い方に出会う。

 私は「言葉をかける」を使ってほしいと願う。それは上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 昭和28 年発行の中に「言葉は記憶されないが保存される」という項目に繋がっていると考えるからである。どんな言葉を子どもにかけるのだろうかと思いを馳せることができ、考える空間がうまれてくるような気がする。心の中に保存された言葉からうまれてくる心の空間。これが大切だと感じるのである。

 「おほしさまのちいさなおうち」(渡辺鉄太 文、加藤チャコ 絵 瑞雲舎)という絵本がある。田舎の一軒家におかあさんとねこといっしょにすんでいる男の子がいる。いつもつまらないとなげき、猫と遊ぶ毎日…ある日 おかあさんが「たんけんにいってごらん」と提案する。「うちのまえのみちをそのままずっと おかのうえまで いってごらん。よく めをあけ みみをすませたら、きっと とびらも まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちは みつかるよ」男の子は猫と一緒におほしさまのおうちを探しにでかけていきました。最初に、女の子に出会い、女の子のお父
さんに出会い、つぎに、おばあさんに出会うのです。「とびらも まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちが どこにあるか しってる?」すると おばあさんは「かぜに きいてごらん かぜは あちこち たびをしてまわっているから」と…。かぜに聞いた男の子はかぜに吹かれてりんご畑についた。かぜは男の子のそばにりんごをころがした。男の子はりんごを大切に手の中にいれ、これがお母さんのいっていた「とびらもない、まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうち」だと気づき、来た道をいそいでもどった。「これが とびらもない、
まどもない、なかにおほしさまのすんでいる ちいさな あかいおうちかな?」とおかあさんに手渡すと、さっそくおかあさんは輪切りにする。「おほしさまがいた!」

「ろうそくよりも もっとあかるくひかる おほしさまがすんでいる」と男の子が驚いたように、子どもの心の世界もこの絵本と同じだと感
じた。

 おかあさんから素敵な言葉をかけてもらった男の子のように、大好きな先生に言葉をかけてもらった子どもは、その言葉が保存され、安心し、広い世界を探検し、そして人や物や時間や空間と出会う。さらに「語彙が拡大」していくことで新たな探検が始まっていく。

 子どもに素敵な言葉をかけること…わくわくしますね。

【新連載】3回シリーズ(2)

言葉と言葉のあいだには…②

平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理

 『あそぼうよ』(五味太郎作 偕成社)という絵本がある。「あそぼうよ」と誘う〔とり〕がいて、「あそばない」という〔きりん〕がいる。その〔とり〕と〔きりん〕のかけあいの絵本である。〔とり〕が「あそぼうよ」と誘いかけると、〔きりん〕は長い首を曲げたり隠したりしながら「あそばない」という。最後のページになっても〔とり〕が「あそぼうよ」というと、〔きりん〕は最後まで「あそばない」と答える。「あした またあそぼうよ」と、〔とり〕がいうと「あした また あそばない」と〔きりん〕が答える。

 〔きりん〕はとんでいってしまう〔とり〕をずっと眺めているが、裏表紙ではなんと〔とり〕と〔きりん〕が一緒にあそんでいる場面になる。

 子どもは〔とり〕と〔きりん〕のあそんでいる姿を見て、何をしてあそんでいるのかと思いをめぐらせている。

 この絵本をある学生が読み聞かせをした。「あそぼうよ」とゆったりと読んではいたが、「あそばない」のところでは「けんかしているの?」と思わず叫ん
でしまうくらいきつかった。「だってあそばないって…かいてあるし…」と学生は言う。喧嘩しているお話ではない。

 子どもは「あそぼうよ」と言葉をかけられると、すっとあそびに入る子どももいれば「あそばない」と口走ってしまう子ども、その場からすっとどこかに行ってしまう子ども。そうかと思えば「あそばない」といいながらしっかりあそぶ子ども。子どもの言葉と子どもの行動の関係性は微妙で深遠さをもっているのである。

 上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 (昭和28 年発行)をひらいてみることにする。そこには、「お話は深い人生を味わわせる」という項目があり、次のように書かれている。「お話には、必ず目的があります。別な言葉でいえば、作者の理想が含まれています。それはお話の表には少しもあらわれません。それについては、一言もいわれません。けれども、ことばの裏、筋の裏に、ぴったりくっついて、はじめからおわりまで、ついてま
わっています…」とある。子どもと言葉をつないでいくにはややこしさがある。しかし、一瞬のうちに子どもと言葉がつながることもある。

 『コッコさんのともだち』(片山健 作・絵 福音館書店)という絵本の中に「コッコさんは ほいくえんで ひとりぼっち。なかなか みんなと あそ
べません。…でも ごらんなさい コッコさん…アミちゃんもひとりぼっち。… でも ちょっと みた ふくのいろ、 おんなじ おんなじ すると だんだん うれしくなって うんと うんと うれしくなりました。それから ふたりは いつでも いっしょ…」とある。子どもはまわりにいる子どもに単純に「おなじ」をさがし、「おんなじ おんなじ」という言葉から一瞬のうちに行動がうまれる。いいかえれば、子どもは微妙と深遠さという複雑な世界と、一足飛びに関係がつながる魔法の言葉「おんなじ おんなじ」も兼ね備えている。やっぱり子どもの世界はおもしろい…。

【新連載】3回シリーズ(1)

言葉と言葉のあいだには…①

平安女学院大学短期大学部保育科 金子 眞理

 子どもたちに私の大好きなお話を語る時がある。それは「あくびがでるほどおもしろいはなし」松岡享子作、おはなしのろうそく5(東京子ども図書館出版社)である。「ここから北へ北へとすすんでいったある南の国に、たいへんかしこい、ばかな男がすんでいた。ある朝、夜が明けて、あたりが暗くなったので、男は目をさました。外はすばらしくよいお天気で、雨がザアザアふっていた。そこで、男は、『よし、きょうは山へ魚釣りに出かけよう』と考えてよく手入れのいきとどいた、さびたてっぽうをもって、うちを出た。なだらかな、けわしい山道を、どんどんのぼっておりていくと、まもなく木の一本もない森へ出た。そこで、男がはえていない木にのぼって、すなはまにこしをおろしてまっていると、やがて、見たこともないような、あたりまえの魚が、なみをけたてて、のろのろとおよいできた。男はすかさずてっぽをかまえて、ドーンと一ぱつぶっぱなした。たまはねらいたがわず見ごとにそれて、魚はバッタリ生きか
えった。男は、『ちきしょう、うまくやったぞ!』とさけんで、魚をひっつかみ、大いそぎでゆっくりと走ってうちに帰った。男がそれをりょうりして食ってみたところが、なんとほっぺたがおっこちるくらいまずかった。そこで、男は、魚をみんなにわけてひとりじめにし、ほねと身と皮をのこしてすっかりたいらげてしまった。あんまりはらいっぱい食べたので、おなかがぺこぺこになったそうな。」

 このお話を語ると子どもたちはざわざわし始める。そしておもむろにあちこちで笑いが増えていき、やがて笑いの渦ができる。小学生の子どもはそのお話をおぼえたいと必死に書きだそうとする。子どもは素直におもしろいという反応をしめすのである。一方、女子大学生の授業では雰囲気が一変する。このお話を語りだした途端に教室がシーンとする。挙句の果てにある学生は睨みつけるような眼で語り手を凝視する。ある学生は、お話が終わるや否や質問。「先生、どっちを信用したらいいのですか?」と。また感想文の多くは何を言っているのか理解できなかったと。

 学生の中にはこのお話のような矛盾する言葉の世界で遊んだり、矛盾する言葉の世界で楽しんだりする場所や時間、いわゆる「心の空間」がなく
なってきている感じがする。

 古い書物を手にした。それは上沢謙二編著「幼児に聞かせるお話集」実用家庭百科 講談社 昭和28 年発行である。ページをめくると、はしがきの冒頭の言葉に見入った。「幼児ばなしの世界は混乱している」や、「発達段階に即した話をしていかなくてはならない」とある。また目次をみても今に通じると感じた。「なぜ話すのか」という項目の中には、「人生における最初の経験」・「見えないものを見せる」・「深い人生を味わわせる」・「言葉は記憶されないが保存される」とあった。とくに「言葉は記憶されないが保存される」という言葉が心にのこった。これからを生きていくこどもひとりひとりの心の中に保存されていくような素敵な言葉を伝えているのか、伝えられているのか、言葉の世界で遊ぶという「心の空間」が存在しているのか私自身も考えていきたい。

【新連載】2回シリーズ(2)

「何にでも向くこと」

池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子

 子どもたちは日々、からだも心もひとつのものとなって表現しながら遊ぶことを楽しんでいる。遊びの中には表現の萌芽がたくさんちりばめられている。時には、無自覚な表出でさえ、保育者をはじめとした大人やお友達とのゆるやかなかかわりの中で志向性を持ち、その子らしさや思いを伴った表現へとなっていく。

 表現は、「言葉、音楽、造形、身体」という四つの手段で、内側から外側へと「あらわす」活動とされる。近年の社会が変化する中で、これらの行為を使って何かを「あらわす」力がより重視されているように感じる。この先の人生をより多くの人たちと関わりあいながら生きていくための一つの資質としてとらえられてもいる。だからこそ、大人に子どもに、表現力が重視され、表現を高め、発信することが求められる。

 子どもたちにとって表現とは、まず感じたものを受け止めて捉え、認める、というところから始まる活動である。つまり伝える力を育むことよりも、楽しみ、取り組んだ心の動きが言葉や動きとして表れ、造形や絵となる経験が始まりとなり、その過程を共に楽しみ、受け止められることから表現の楽しみを知ることが大切なのである。それは遊びを通し、自己内の対話を充実させるような活動である。自らの感性を育むことである。そのことをもとに自己を表現できるようになり、他者と対話し、仲間と対話しながら協働し、表現する
力が生まれる。

 このような過程に大人はどうかかわっていくのか。以前に教員免許更新講習の講師をさせていただいた時、表現遊びの指導は正解がなく、技術が必要なので難しいとおっしゃられた先生がいた。きっとそうなのだろうと思う。正解がなく、たくさんの方策がある中で子どもたちの興味に合うことは何かと考え、時に子どもの葛藤やぶつかり合いに保育者自身も悩む、そんな時間と試行錯誤を楽しみながら子どもの表現に向き合っていくことにこそ醍醐味がある。保育者自身が発信優位になりすぎず、子ども達の今見つめて感じていることに共感しつつ、評価を押し付けない姿勢であること。できるできない、良い悪いをこえた自己肯定
感を育むことが求められている。

 「大らかで柔らかい笑顔の人の親もまた、大らかで優しいもんやろ?」これは家ではただの親でいいということをうまく体現できなくなっていた私に、息子が投げかけた言葉だ。大人は時として分からなさに目をふさがれ、そこに見えている正解らしいものに固執し、向き合うことが難しくなってしまう。先を急ぎすぎずに、子どもたちそのままの表現を大人が包み込み、大らかに柔らかに大人が向き合うとき、自然と表現の中の子どものイメージや心の動きが浮かび上がってくる。このような瞬間、わかり合う喜びに溢れ、学びと教育とが一つに交わり、保育の中で「表現」することの喜びが味わえるのではないだろうか。

【新連載】2回シリーズ(1)

「何にでも向くこと」

池坊短期大学 幼児保育学科 講師 矢野 永吏子

 私は、40 年後50 年後に社会を支えるそんな子どもたちの今を育てる先生になる人と日々学び、接しているのだと思っています。そしてそんな先生の卵を、本当の意味で「子どもって楽しいでしょ」「子どもとともにって感動がたくさんあるよ」「先生の仕事はこんなに面白いんだよ」と実感できるように導き、殻を破る場をくださるのは、彼らが現場で出会う先生方と子ども達なのだとも強く感じます。卒業生と久方ぶりに会うと、ひとり一人が学生時代とは異なる深い視点を持ち、目の色を輝かせて子どものことを思い、真心で保育のこと考え、意志をもって悩みを語る姿に感動します。
時には、先輩である諸先生方ともぶつかりながらも子どもとの関わりを模索している姿は胸を打つものがあります。その人の感性に影響し、みずみずしくそれだけの変化を引き起こした、保育教育現場の時間の流れや、現実の関わりの眩しさに、自分自身が養成校の亡霊のように思えてきます。おそらくそんな風に感じるのは、私には学生時代の彼らの姿が強く印象に残っているからです。

 身体表現と幼児体育という授業を担当する関係上、私は学生の咄嗟の表情や動き、思いの表出に直に触れ、学生自身が気づいてもないような内面を目にしたように思うことがあります。そこには不安や、引け目、悩みのようなものが含まれていることも少なくありませんが、素直な学生の姿であり、ありのままに愛おしいものです。ただ、良くも悪くも学生のありのままが息苦しく、もどかしいように感じることが、近年増えたようにも思います。リアルな生活経験が足りない姿。選び取れない、自信がない、迷い続け人とつながり合えない姿。自分のことだけで精一杯になり相手のことを思いやれない姿。「学生の弱さ」とか、「社会がそうさせる」としか説明ができないときもあります。感性を豊かに表現することの楽しみを知りながら幼少期を過ごしたはずの子どもたちが大人になるにつけ、傷つき、頑なに自分を守ろうとしている。その人本来の伸びやかな自我はどこにあるのだろうか。

 そんな時に最近思いを寄せるのは、先生という仕事の可能性です。幼児教育と養成教育は、対象者の主体性を大切にするという意味で常に響き合っていると感じます。子どもが一様でないように、多様性を持った専門職として、幼児教育・保育の先生はジェネラリストに近い存在でもある。その中で発揮される一人ひとりの先生の力が、子どもを支えていくために何より貴重なのだと思います。「子どもが好き」のその一念を職業として全うしていけるように、学生のありのままの保育に対して向けている思いを、保育に根差す価値観と知識へと導く。そんな養成教育が、実は人生や社会のすべてが詰まっている幼児教育・保育の中で、何者にでもなれるような先生を育てることができるのではないでしょうか。

 先生は向いていなければなれないのでなく、「何にでも向くことができる」ことが先生の仕事のなかにはたくさんあるという理解が、専門領域で区切られている養成教員の中に何より必要なのではないか。養成課程では己の得手不得手と向き合いながら感性を磨き、先生として自分が向くものを見つけられるようにする。
養成教員は単に学生の先生としての向き不向きを量るのではなく、その人の向くところを先生としていかに発揮していくのかを導く存在でもありたい。不安定な社会の中で育つのは学生自身の課題でも、先生として育ち上がるためのヒントを工夫して提示できるように、私たちは学生自身の自分の向くところに対する育ちを深める存在になっているのだろうか。

 卒業目前、先生に向いてなければならないと思い悩む学生は後を絶ちません。就職と卒業をめぐる学生との面談、そして教員間のやり取り、現場の先生との対話がこの文章となりました。気が付けば養成校教員としての雑感がすっかり強くなってしまいました。次回は子どもと表現にかかわることを中心に語りたいと思います。

【新連載】3回シリーズ(3)

「白でも黒でもない保育の世界(3)園行事から子どもの参加を考える」

京都教育大学 幼児教育科 准教授 佐川 早季子

 前回、日本の保育における園行事は、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」で行う生活経験であり、そこで大人は子どもたちがいかに行事の真の参加者となり、つくり手になるかを考えていかねばならないのではないか、と述べました。

 ここでの参加とは、いったいどういうことなのでしょうか。子どもが競技や出し物を行えば参加したことになるのでしょうか。園行事にまつわる事例から考えてみたいと思います。

 H ちゃんは、4 歳児のときの運動会で一歩も動きませんでした。前日まで、他の子どもたちと一緒に出し物やかけっこを楽しそうにしていましたが、当日は保護者が大勢見に来ていて、いつもとは違う雰囲気を感じたのでしょう。自分の番になっても一歩も動かず、「Hはやらない、見てる」の一点張りでした。保育者は、励ましたりもしましたが、無理強いはせず、H ちゃんと話をして、その思いを受け止めることにしました。そして、運動会が終わってから、運動会の持ち方に課題がなかったか、H ちゃんにとって運動会がどんなことであったか、行事と日常の保育がつながっていたかを話し合いました。母親によれば、H ちゃんがやらなかったのは「負けたくなかった、でも負けることはわかっていた、それを見られたくなかった」のだということでした。

 それから1年間、保育者は、H ちゃんの「負けたくない」という思いを共に感じ受け止めつつ、「負けるかもしれない、でも」という思いが芽生えるように、のんびりと、でも根気強く関わりました。H ちゃんが頑張っている姿を見つけたら、「頑張っているね」と言うだけでなく、どこまでやろうとしているか、H ちゃんが手応えを感じる瞬間をわかち合えるようにし、手応えが感じられた日には母親・父親ともわかち合いました。

 翌年の5歳児年長になっての運動会までには、保育者が「どんな運動会にしたいか」「運動会でこんなことをしたい」とういことを子どもたちと共有し、互いの気持ちや希望、不満を聴き合う時間を重ねました。5歳児の運動会ではリレーがあり、H ちゃんも出ることになっていました。同じチームの人と作戦を立て、何度も競いあい、負けて悔しくて泣くこともありました。当日、H ちゃんは前走者から1 位でバトンをもらい、走り出しましたが、その次の瞬間、見事に転び、2位、3位だった人たちにあっという間に抜かれていきました。保育者も親も子どもたちも、固唾を飲んでH ちゃんを見守り、1 秒が1 時間にも感じられました。しかし、H ちゃんは、すっくと立ち上がったかと思うと、迷いなく、落ちたバトンを拾い、走り出しました。そして、走りきってから、涙を流しました。別の出し物でもHちゃんは最後までやりきり、その後に満面の笑顔を見せ、クラスの仲間たちのところに戻って行きました。その笑顔は、大人の期待した姿を見せたというよりも、自分の殻を破ろうと挑戦し続けてきたことを誇っているように見えました。

 4歳児、自分のできなさも見えてくるとき、「できないかもしれない」という心の揺れはとても大きいものです。もしかすると、自分の枠や限界を人生で初めて感じているのかもしれません。H ちゃんの「やらない、見てる」という参加の形を受け止めるのは、大人にも勇気のいることです。園行事は、このような節目を顕在化するものでもあります。それをどう考えるかは、園の理念や方針によるでしょうが、園やクラスというコミュニティの中で大きな力をもった保育者が、一つ
の参加の形に子どもの在り様を合わせるのでなく、その子なりの思いと参加の形を受け止め、願いをもって、子どもの心の揺れ動きに丁寧に関わることがなければ、行事は大人主導になりがちではないでしょうか。行事、そして「それまで」と「それから」の日々の中で、その子にとっての節目を刻んでいくには、大人主導か子ども主導かの「どちらか」ではなく、「どちらも」が絡み合う関係性のなかで、白とも黒ともいえないグレーな織物を時間をかけて織っていくということが必要なのだと思います。白黒はっきりさせることを求めがちな、スピード感のある社会に大人も子どもも生きています。だからこそ、このじっくりと織物を織る生活を乳幼児期に生きることが貴重なことだと思います。